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Paradigm Shift Design

ISHITOYA Kentaro's blog.

体罰と個性と

昼、知立駅で知鯉ラーメンを頼んで、出てくるまではてぶを眺めている時に、それを個性とはよばない - 北烏山だよりが気になって読んだ。
家に帰ってきて、タイムリーに毎日jp(毎日新聞)を見つけた。

教諭は食べ始める際に床にメニューのいなりずしが落ちているのを発見。「なぜ落ちているのか」とまわりの児童に尋ねると、男児から「給食中はしゃべっちゃいけないことになっている。先生おかしい」と言われた。教諭は男児を落ちていた場所に連れて行き、「見ろ」と言いながら男児の頭を3回床にたたきつけたという。男児は前頭部を約1センチ切った。

僕は、「必要な体罰」は行ってしかるべきだと思うし、「学校側は男児と保護者に謝罪し、23日には教諭を担任から外した」という結果は、男児と保護者の成長にとって最悪の結果だと思う。社会的な「一定のお約束」を守れない小中学生は、人間である前に「動物」なのだから。
ただ、戸塚ヨットスクールのように、体罰によって死に至らしめることは、絶対にあってはならないと思うけれど。


こんなことを言うと、子供の個性がとか、健康がとか、安全がとかいう話になりがちだけれど、今の小学校では調べ物学習をさせられない - Attribute=51を読むと、本当にそんな思考停止した議論でいいのか?と考えざるを得ない。
まぁ、人の親でもないのに、そんなことに言及すること自体が無価値だといわれかねないけれど。


で、mari777さんのBlogにもどるけれど、

中学で国語を教えていたころ、時折、保護者から言われた。
「うちの子は個性的なので、先生の読みとはちがっていて、テストで○がもらえなくて」そのたびに、それは個性とはよばないのです、誤読しているのです、と思った。

「みんなちがって、みんないい。」
まったくそのとおりで、そのことじたい、異論はない。
けれどもそれは、文学なら文学の、社会生活なら社会生活の、一定の「お約束」をクリアしたうえでの話だ。
子どもは教育によってその「お約束」を身につけていくのだけれど、
その「お約束」の身につけ方はさまざまだ。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対する答えはもしかしたら一生でないかもしれないけれど、
「人を殺してはいけないのです」というお約束をたたきこむことはできる。

とあって、コメントに

tss 2008/10/23 12:20
そのお約束を説明できず、ここはこう決まっているんだ、としか答えられない先生が(かなり)いるのが問題なんですよ。

高橋源之助 2008/10/23 14:07
礼儀や作法なども含め、社会には理屈のあやふやな「お約束」が沢山存在して、しかもそれを前提に成り立っていることが多いわけですから、何でもかんでも「説明」が必要というわけでもないですよね。説明不能なものは約束やルールとして成り立たない、なんてことはないわけです。

そういうのを「常識」といいます。
常識は、理屈ではないですから「ふさわしい教え方」があるわけです。
いわく「そう決まっている」です。

otsune 2008/10/23 15:11
いや説明不能なものは約束やルールとして成り立たないんですよ。
常識は「理屈」ですから、発祥や歴史がほぼ存在する訳で。

もちろんそう思わない人がこの世にいたって良いんですけど、個人的には「僕はこう思う。なぜなら○○だからだ」という説得力のある具体的根拠を出して自説を展開して欲しいよなぁとは思います。

takepierrot 2008/10/23 20:35
「作品に書かれていること」を読み取るのであれば、そこに複数の解が求められるとは僕も思いません。ただ、そこには必ず"根拠"があるはずです。教える立場にある人には、その根拠くらいは最低限説明できるようになってから教壇についてほしいと、学生時代には生意気ながら思っていたものです。
「こう思う」という解釈は、おっしゃるとおり自由でよいのかもしれません。「エリスざまぁw」という文章はテストの回答としては不適切ですが、一読者の感想として間違いではありますまい。


とあった。コメントの文脈は、「学問的お約束・常識について」と「社会的お約束・常識」が入り混じっているので個々に何か言うことは避けるけれど、子供でも大人でも「一定のお約束」・「常識」といったメタ認知を身につけていない人に対して、「理屈」や「根拠」や「教師の自説」について説明することほど無意味なことはないと思う。


無論、理由や根拠を示すことでメタ認知を教育することが無意味だといっているのではなくて、理由や根拠によってメタ認知を教育すべき分野とそうではない分野とは、厳然と分かれているのだということをいいたいのだ。
それは、「学問的」と「社会的」という分類だ。
学問的なメタ認知については、事象別の勉学と平行して、理由や根拠を示しながら積極的に教育すべきだし、そうでなければ子供はただただ受験勉強をしているだけに留まって、「個人の自律」なんて夢のまた夢になってしまう。


ただ、社会的な常識、たとえば

  • 人を殺してはいけません。
  • 強盗をしてはいけません。
  • 飲酒運転をしてはいけません。

といった、大きなものから、

  • 電車の中で騒いではいけません。
  • 廊下を走ってはいけません。
  • お箸とお茶碗は美しく持たなくてはなりません。

といった、小さなものまで、すべからく「理屈」とか「根拠」は必要ないし、「なぜだ」と問われても答える必要はない。
もし、あえて答えるなら、「人に迷惑をかけないように」であったり「自分がされたらいやでしょう」でしかない。


アリストテレス曰く、人間は生まれながらにして社会に所属する、「社会的な動物」である。その前提に立てば、「個性」・「個人の自由」は社会があってはじめて成り立つ概念で、熊やライオンの自由とは本質的に違う。すなわち、所属する社会のメタ認知を備えることによって、はじめて人間は人間足りうる。
だから、「常識を身につけさせることが絶対的な課題」である初等教育においては、「必要な体罰」は不可欠で、そこに積極的に理由や根拠を持ち出すことは間違っている。
もちろん、そういった常識を身に着けた人のために、その理屈や根拠を示すことは、常識に対するメタ認知を促すし、他の領域的メタ認知にもいい影響を及ぼすだろうけれど。


常識を軽んじたり無意味だと捉えたりする人間は、一塊の社会を形成することが多い。そういった人々は、体罰は問題だとか、個性が大事だとか、そういったことを声高に叫び始める。
佐伯啓思著、自由とは何か、読了 - Paradigm Shift Designの佐伯先生は、問題を「多様性」として捉えると、「あの人たちは僕らと考え方が違うから」ということになってしまい、相互理解が行われなくなってしまう。
それよりも問題を「多元的」に捉えることが重要で、一つの物事は複数の次元で構成されていて、かつそれは一つの事象であるということを意識するべきだ、という。


常識は重要なのか、体罰は問題なのか、個性は大事なのか、もっと大人たちが真剣に考えて、子供の未来をより幸せなものにすることこそが重要だろうと思う。


なんだかまとまらないけれど。