Paradigm Shift Design

ISHITOYA Kentaro's blog.

歴史観について

何かの拍子に、某御方が
「百人斬り競争ってのは東京日日新聞の捏造なんだよ」
と切り出して
「捏造のためになぜ謝罪をしなければならないんだ」
という論調で話をしていた。


僕は言わなくていいのに
「いや、僕はそうは思いません」
とか、言ってしまった。


そして、
「なぜ?」
と問われた時、即座に明確な答えを言い返せなかった。
ので、ちょっと整理するために書いてみる。


僕は、
「百人斬り競争は捏造である」
南京大虐殺は捏造である」
という、捏造であるかないかを議論すること自体が無意味、という立場をとっている。
なぜならば、それが史実であるか捏造であるかを証明する手立てがない以上、それを判定することに時間を割くよりも、その先の議論をするために時間や能力を割く方が重要だと考えるからだ。


歴史というものは、それを語る人間・集団の観念によって見方が変化し、正確な史実というものは、到底捉え得るものではないと考える。
フランスの哲学者、ヴォルテール
「歴史は、自由な国においてのみ真実に書かれうる」
と言ったが、いかな自由な国においてでも、真実は人間によって書かれることはない、と僕は思う。


だからこそ、語る人の立場によって幾通りもの歴史が存在していることを認め、認めた上で、建設的な議論をすべきであって、「歴史の正しさ」を議論するべきではない。
あまつさえその議論によって、歴史を語る人間の人格や、その人間が所属する集団の質を疑うべきではないと思う。


「百人斬り競争は捏造である」
と主張するとき、それは同時に、百人斬り競争は史実であるという教育を受けてきた「人間」を否定することなのだということを忘れてはならない。


特に戦争、国家間での殺し合いの末に残った歴史問題については、正しいか正しくないかではなく、「目の前の人間をいかに認めるか」ということに力を割いて、その上で、ならば僕らはどのようなことを為さなければならないのか、何を考えなければならないのか、を考えることが重要なのだ。


これは、集団同士の場合においても同様である。確かに国家として国益というものを考えたときに「百人斬り競争の史実」について謝罪するべきではない。
だけれども、日中戦争全体について、中国に対して侵略戦争を行ったことについては受容して、国会決議を通して国家として正式に謝罪をするべきだ。無論、韓国・インドネシア・フィリピン・その他の国に対しても。


僕ら個人が戦後六十数年たった今になっても、「史実の正しさ」について議論している理由は「謝罪していないから」ではないだろうか。
ただ、もうタイミングを逸してしまったのかもしれない。アメリカから言われて謝りました。中国が影響力を増してきたので仕方なく謝りました。と国際社会に捉えられてもおかしくない。
それでも、時間が解決する、というのではなく、一歩踏み出すために、けじめをつけるべきだろう。


僕は、中国とちょっとだけつながりがある。
だから、多様な歴史認識が存在することを認め、それらをつぶさに見て感じ、十分咀嚼して、我々がこれから何を考えなければならないか、を考えたいと思うのだ。


ということをちゃんと、主張できればよかったなぁ。
偉そうなこと書いても、主張できなければ意味がない。