Paradigm Shift Design

ISHITOYA Kentaro's blog.

枕詞と思考停止

今日は雨.


食べ物を大切にするということとはもっともだと思う.
要約すれば,
「世界には食べたくても食べられない人がいるんだから、残さず食べなさい」
なんて大所高所にたった言葉で,子供の好き嫌いをなくそうとするなんてのは,食べたくても食べられない人たちに失礼だ.ましてや,問題が子供の好き嫌いなんて矮小な話題ではなく,全地球的な環境問題という文脈において,公共の電波を使って古館一郎なるアナウンサーが使うべき言葉ではない.そんなまやかしのような言葉でごまかすのではなく,我々に本当にできることは何なのかを,考えて発言すべきだと思う.
ということだった.


僕はこの話には,大賛成だし「搾取する側の人間が,搾取される側の人間を手本になさい」と,自分の子供に諭すなんてちゃんちゃらおかしいぜと思う.

でもなんとなく違和感があったので,ちょっと考えてみた.いや古館を弁護するわけでは決してない.


「近年,インターネットの普及・ブロードバンド化によって,情報量が爆発的に増加している.そのため人間が処理できる限界を超えつつある〜」
という文句は,IT系論文ではほとんど形式化した一文で,よく使われている.
要らないのかといえばそうでもない.やっぱりないと寂しいのだ.お偉方の先生ともなるとMy枕詞とでも言うべき文句を持っているくらいだから.


枕詞には,ほら想像してごらんよ,と相手に訴えかける意味があると思う.文章の背景を共有するためには必要不可欠だ.


それと同様に,考えてみると
「世界には食べたくても食べられない人がいるんだから、残さず食べなさい」
この言葉は,どんな背景を共有しようとしているのか.
昔,この言葉に含まれる「世界」は,地球ではなく「地域社会」というほどの意味であったと思う.ちょっと頑張れば貢献できる世界.もっと言えば,「彼ら」のなかに自分が含まれていることを自覚できる世界.
だから,その構造の中に搾取する側とされる側という文脈が含まれていなくて,もっと純粋な言葉だったんだろうなとおもう.


資本主義社会が作り出したグローバリゼーションの潮流の中で,いつの間にかアフリカが世界という曖昧な言葉の中に含まれるようになってしまった.
そして僕らは,アフリカとか貧困地帯へ行ったことがない.だから僕らが想像できるアフリカの貧困は,古館が伝えるようなマスメディアの情報の範疇でしかない.


僕らは生まれながらにして,全世界の人口の中の約3%の富めるものに入っている.生まれながらにして搾取する側だ.
その文脈に
「世界には食べたくても食べられない人がいるんだから、残さず食べなさい」
を持ってきてしまうと,ただただ,欺瞞でしかなくなってしまう.


これが僕の違和感の正体のようだ.多分Crasherのそれともおなじ.


僕ができることは何かと考えたとき,アフリカに対して,僕ができるのは多分「お金」ぐらいだろう.アフリカの貧困を想像して,彼らを助けたいと考えるよりも,僕はもっと身近な世界にたいしてどう貢献できるのかを考えるべきだと思う.世界はつながっているのだから.


特に,環境問題とか貧困問題って,
「日本人なのだから箸や茶碗を美しくもつことができなければならない」
「文化をないがしろにするような人間は,何をやっても心が伴わない」
「だからそういう人間は,環境とか貧困についても心及ばない」
という論理が成り立つと,僕は真剣に思う.