Paradigm Shift Design

ISHITOYA Kentaro's blog.

第二次湾岸戦争開始

昔の日記.2003年3月22日

さっき、小説を一冊読み終えた。
塩狩峠」 三浦綾子
とても内容豊かで面白かった。面白かったというのは御幣(ママ:語弊)があるかな、とにかく心動かされました。
1880代の頃、世が明治に移り変わっていく時代に生きた主人公の目を通してキリスト教について語られていました。


塩狩峠を読んで感じたことは、
蒼穹の昴」 浅田次郎
を読んで感じたことも同じことだろうとおもう。


何か共通点があるのだろうかとおもって、よく反芻してみたが、漠然としか思い浮かばない。
だけれども、多分こういうことだろう。
くちはぼったいが、どちらの小説も「人の愛」についてかかれていたのだと思う。
キリスト教を通してなり、登場人物の生き様を通してなり、何らかの形で語られていたと思う。



貸してもらった本にそんな感銘を受けているさなか、第二次湾岸戦争は始まってしまった。
ブッシュ大統領は言う、「自由の守護者たちに神のご加護を」、と。
フセイン大統領も言う、「これは聖戦だ」、と。


幸か不幸か無宗教な俺には、意味が全く分からない。


神が殺し合いを望むのなら、はたしてそれは神と呼ぶに値する存在なのか。
神がイラク国民の解放を望み、偉大なるアメリカがその実践者だとしたら、イラク国民の犠牲を神はよしとするのだろうか。
神がアメリカに対する報復を望むとしたら、殴られていない方の頬を差し出せといった神の言葉に逆らうのではないのか。


もし本当に神がいるのならば、とっくのとうに私たちは滅ぼされてしまっているのではないだろうか?


キリスト教やイスラム教はそれを代々信仰してきた彼らにとってもはや、宗教であるまえに文化であることはわかる。だが、宣戦布告の文章で、ひとたび発効すれば人の命を確実に奪う声明の中で、神を引きずり出すのはどうなのか。ましてや、プレジデントブッシュは、キリスト教原理主義者ではなかったか。


聖書には汝隣人を愛せよとなかったか。
ナポレオンがごとく、我が聖書に〜とでも言うつもりなのか。


俺は無宗教であるから、あなたたちの考えは分からないが。
武力で武力を押さえつけることが無意味なことに、この4000年かけても人間は理解できないのだなと思うと悲しくなった。


そして、この戦争でなくなった人はその犠牲を利用しようとするもののてによって種類が変わる。
「自由のために戦って死んだ殉教者」
「聖戦のために戦って死んだ殉教者」
「フセインの奴隷として死んだ虫けら」
ブッシュ大統領の命令によって死んだ飼い犬」
そこに倒れた人間は、何のために死んだのだろう。


俺は、神のために、自由のために、そんな言葉を彼らの屍の上に与えるのは反吐が出るほど間違っていると思う。
彼らは、権力者の欲求のために死んでいったに違いないのだから。


俺は、まぁ聖人でもなんでもないのでここで愚痴ってるだけですがね ;D

うーん.